聖書ってどんな本ですか (1)「本じゃないわ!」

 

 

  私は、自慢ではありませんが、本を読むのが 凄く、速いです。速いと利点があると思われますが、私は、活字を見るとすぐ読みたくなる活 字中毒の様な人間なので常に読む物がないと落ち着かないのです。そのため、子供の時の愛読 書は百科辞典でした。そう簡単には読み切れないからです。

 実は、こんな本(活字)大好き人間が唯一、読みたくないと思った本が「聖書」です。勿論、子供の時から教会学校に行っていたので断片的には、聖書のお話は、知ってはいましたが聖書そのものを読む気は、ありませんでした。でも中学生になり聖書をもらったので 読む事にしいつもの様に「前書き」と「後がき」から読もうとしたらそれが、ないのです。 いつも私は、最初にこれらを読んでから真剣に 読むか適当に読むか、あるいは、読まないか (読む必要があるか)を決めていました。 しかたがないので取りあえず、真ん中より後ろにある新約聖書と言う区切りの良い所から読む事にして最初のページを開けて読み始めまし た。思わず「何だ!これカタカナの名前ばかりで誰かの系図らしい事はわかったけどこんな書き方でスタートしたら本としては駄目だわ。何も読者にアピールするものがないしこれで最後まで読んでもらおうと思うのは、努力が足りな いんじゃゃないの・・・」と私は、読むのを辞めました。

 その後、高校生になり、ものみの塔(エホバの 証人)の方との学びを通して聖書には預言がたくさん書かれている事を知りましたが、預言が 当ろうが、外れようがどうでもいいし第一、黙示録の預言から14万4千人の一人に入らない と救われないと言われてもそんなに救われる人がいないのかと逆に信憑性を疑いました。 ものみの塔の人から「聖書は神さまが書かれたものなので人間の知恵や努力で意味が判るような物ではありません」と言われ読む意欲が削がれました。

 その後、ものみの塔から離れ、普通の教会に行くようになっても聖書を読もうと言う気にはなりませんで した。何故なら、高校生を指導していた伝道師の先生に「創世記は、おとぎ話だ」と言われ、「聖書は神のことばだから本当の事だと思いますけど」と言ってしまい、私は、いじめを受けてしまったからです。 自慢ではありませんが、私は、信仰を持つまで聖書を読んだ事が一度もなく、洗礼を受ける前にも何 一つ聖書から学びもしていないと言う稀有な人間です。

 洗礼を受けた後、幾らなんでも一度も聖書を読んだ事がないと言うのはまずいと思いましたが、 貴重な時間を割いてまで読むのも嫌だと考え、父と 友人たちが徹マン(寝ないでマージャンをする)している間の隙間に読む事にしました。病弱な母に代わり、お茶を出したり軽食を出したり片付けたりの間に読み続け、朝が来る前に読みきりました。

 読み終わった後、この本の中身を簡単に纏めれば、最初の創世記には、この世界の成り立ちが書かれ、旧約聖書の殆どは、主に神に選ばれたイスラエル民族の歴史が書かれている。そして新約聖書は、 旧約聖書で預言されていた救い主がイエスとして来られた事、そしてそのイエスの弟子たちが世界中にキリストの事を伝え、最後の書である黙示録では、再び、キリストが来られた時、今の世界は滅び、新しい世界がはじまると言う事が書かれているのだと分りました。つまりもっと大雑把に言えばこの世界の最初と最後がこの一冊の本のテーマだと思いました。 そして、この本はただの本ではないなあと感じました。ただ、その時は、この本が自分の人生そのものまで変えてしまう事になるとは、夢にも思いませんでした。